・第2回東北地域通貨サミット-------2002年12月15日
・基礎所得給付型オンライン地域通貨システム「BASIC」-----2003年3月8日

 

商品から国家まで。象徴戦争の時代

人はなぜ買うのか。人はなぜ国家のため人を殺すのか。
そこにあるのは,ブランドという古くて新しい神々の闘争である。

 

コミュニケーション、貨幣、インターネット…


 人間はコミュニケーションする動物です。人は誰かと、何かとコミュニケートしないでは生きられません。誰かと話をする、議論する、愛する、憎む、戦う…。それだけではありません。たとえば食べるという行為も、料理した人との対話であり、同時に素材を産みなした大自然とのコミュニケーションといえるでしょう。こうしてみると、生きることはすなわちコミュニケーションそのものである、といってもいいかもしれません。
 このコミュニケーションの道具には、さまざまなものがあります。言語がその代表的なものですが、現代社会には、もうひとつ重要なコミュニケーションの道具があります。貨幣です。貨幣は、「信用」をキーワードとして人と人とのコミュニケーションを媒介するはたらきをします。そして、この貨幣は、人類が発明したもっとも便利なコミュニケーションの道具のひとつであり、とくに現代の資本主義はこの貨幣なしにここまで発展することは不可能だったことでしょう。
 ただ、現代社会の悲劇は、この貨幣があまりにも強大になりすぎたところにあります。本来、人と人をつなぐコミュニケーションの媒介には、愛や友情、信頼(「信用」とは異なります)、義理、人情など、他にもさまざまなものがあるはずなのに、この貨幣がまるで唯一のそれであるかのようにふるまっています。この貨幣の独裁体制こそが、現代社会におけるさまざまな問題の根っことなっているのではないでしょうか。
 貨幣はいま、それまでもそうしてきたように信頼や共感、義理、人情といった人間同士のアナログな部分をますますそぎおとし、ますます記号化しています。共感に満ちたコミュニケーションの道具ではなく、冷徹な収奪の道具と化しています。いいかえれば「デジタル」化していますーーー。
 そうした動きの背景にインターネット、IT技術があることはいうまでもありません。けれど、わたしは、インターネット=デジタルという単純な図式でとらえることには反対です。インターネットは、ある面ではコミュニケーションの道具にすぎません。そこで媒介されているのは、「効率」「利益」といったデジタル的な価値観ばかりではありません。そこには、共感や友情、思いやり、さらに愛や憎しみといったきわめてアナログ的な価値をもつものが日々媒介され、「流通」しています。
 そもそも貨幣もまたコミュニケーションの道具のひとつにすぎないことを認識したなら、わたしたちはなにも貨幣だけを後生大事に崇め奉る必要はないはずです。もちろん、貨幣はとても便利な道具です。とくにグローバル市場が効率よく機能するためには、貨幣、それもグローバル貨幣が必要不可欠でしょう。けれど、たとえば地域の住民を、隣近所同士の人を結びつけるのにわざわざグローバル貨幣をもってくる必要がどこにあるでしょう。それは鶏をさくのに牛刀を使うにも似て、かえってそこにある人間同士のつながり、共感や思いやり、義理、人情といった、共同体におけるアナログ的な関係性、価値体系をこわしてしまう危険性があります。貸し借りは友を失う、というのはそのあたりの機微をいったものではないでしょうか。
 わたしはインターネットのすばらしさは、それがデジタル的な価値観だけをコミュニケートさせるものではなく、同時にアナログ的な価値観をもコミュニケートさせられるところにあると考えています。そして、それは貨幣の絶対権力を相対化し、その独裁体制に終止符を打ち、同時に共感、人情、思いやりといったアナログ的な価値観を復権させることで、より多様な価値軸が併存する柔構造型の社会をつくる契機となりうるのではないかと期待しているのです。

 

スローガン その1

飢えのためではなく、誇りのために働く社会を!

 

 労働と報酬

 労働は苦しみの代価ではない。労働は社会に対する健全な自己表現であり、それに対する報酬は「やりがい」や「賞賛」として本来自己表現そののものの中にあるべきだ。

 

この世の幸福のさじ加減は銀行次第?

 ずっとずっと昔、人々は互いに協力しあって生きていた。山で獣を追うのも、雨風をしのぐ家屋を建てるのも、さらに田んぼで稲を刈るのもそうだった。協力すれば、それだけ多くのことができるし、みんなが豊かになれる。逆に喧嘩ばかりしていたら、みんなが困るし、貧しくなるーー。そこにあるのは、子供でも理解できるきわめてシンプルな原理であった。
 ところが、時代がくだるとそこにお金というものが入ってくる。人々はお金をもって労力や生産物を交換することを覚えはじめた。事実、それはとても便利なものだったし、実際それは非常にうまく機能した。やがて貨幣は、人々の交換を仲立ちするたんなる道具から、それを持つことでなんでも手に入れることのできる魔法の道具へと変わっていった。お金をためこむ人があらわれた。
 だが、お金は本来、交換の仲立ちの道具にすぎない。それをためこめばためこむほど、交換に必要なお金の量は減っていく。やがて、コミュニティはお金不足という深刻な問題に直面することになる。
 お金が足りなければ、あまっている人のところから借りてくるしかない。けれど、お金をこつこつとためこんだ人がなんの代償もなしに貸してくれるはずがない。そうして、そこに利子が発明され、お金を貸し出す専門機関としての銀行が誕生した…。
 いっぽう、お金が人々の心を支配すると、人はお金なしにはなにもできないと信じ込んでしまった。しかも、お金はすでに銀行が独占的に支配している。もちろん人々はいまでも、その気にさえなれば、互いに助け合うことで互いの人生の労苦を軽減することができる。だが、人々は、いまや協力しあうにもまずお金がなければならない、と思い込んでしまった。お金なしに互いに助け合うことなどできるはずがない、そう信じきってしまった人々にとって、人生の労苦はいわば銀行のさじ加減ひとつにみえる。そう、銀行はいまや中世ヨーロッパの教会のような存在となってしまったのだ。その昔、天国での幸せは、教会が独占的に提供できるものだった。しかし、いまやこの世の幸せは、銀行が独占的に提供できるのである…。

 

モノづくり経済と意味づくり経済

人生にモノはそれほど必要ない。だが、意味は不可欠だ!

幸福貨幣?


 地域通貨を運用するにあたって最大の問題となるのは、利用者がはたしてそれをよろこんで使ってくれるかどうかであろう。実際、使い勝手の悪い地域通貨をあえて使ってもらうためには、そこに法定通貨以上のなんらかの魅力がなければならない。だが、どうすれば…。これは地域通貨運営者にとって、最大の難問である。
 だが、これを商品選択にたとえてみたらどうだろう。たとえば、いま目の前にAという商品とBという商品があるとして、なぜ消費者はBという商品を選ばないで、Aという商品を選ぶのか。あるいはBという商品ではなくAという商品を消費者に選択させるにはどうするか---。じつはこれは、マーケティングの基本命題そのものである。
 地域通貨をマーケティングの視点からみた場合、そこに必要なのは法定通貨との差別化だ。要は法定通貨とはことなる魅力をどれだけ地域通貨に付加できるか、が最大のポイントである。ではこの魅力とは何か。端的にいってしまえば、「それを使うことで幸福感が得られる何か」、である。そしてこれはいってみればいま流行りのブランド、あるいはブランド力というものにほかならない。
 ということはつまり、地域通貨を普及させるにはそれを使う人がみななんらかの「幸福感」を得られるような貨幣にすればよい、ということになろう。キャッチコピー風に表現すれば「使う幸せ」あるいは「使う誇り」とでもいえようか。
 またもしそうであれば、地域通貨というのは、なにも法定通貨である円やドルと真っ向から張り合う必要はない、ともいえるだろう(実際それは無理な話だ)。それは一般のブランド品と同様、それを使うことでなんらかの満足感(それがたんなる自己満足であろうと)が得られれば十分だし、とりあえず地域通貨としての社会的役割もある程度はたすことができるものなのかもしれない。もちろんそうはいっても、言うは易く行うは難し、ではあるのだが…。


漢方貨幣論

 人は「気」という「貨幣」を交換しあいながら生きている。一般に「気」は、食べ物の中に多くふくまれるとされるが、意外に多いのが人の言葉である。人は人がはなつ言葉によって「元気」を獲得したり、失ったりする。またとりわけ人が気を交換するのは、笑いを通してである。笑いの中でひとは自らを他者に開く。その時、両者はたがいに気を通じあい、つまり意気投合することになる。もし他者が投げかけた笑いに応じなければ、そこには「気づまり」が生じる。そこには「社会」は生まれない。だが、逆に笑いを強制される時、そこには社会への隷従も起こる。

 

 オリンピックによるナショナリズム克服の方法

たとえば日中韓の選手からなる東アジア混成チームを作ろう。
そうすればオリンピックはやがてナショナリズム宣揚の場からナショナリズム克服の場に変容するだろう。

 

 「働く喜び」という商品

 資本主義はあらゆる商品を生み出してきた。だが、「働く喜び」という商品だけは、ついに生み出すことができなかった。「働く喜び」という商品を創り、またそれを購入しようという人はいないか? その人は、新しい時代の創造者となるだろう。 

ブランドと貨幣

 人は何かを見る際、そのあるがままの姿をみるわけではない。みずからこうあって欲しいというものだけを恣意的にみるものだ。その典型的な例が、ブランドである。ブランドは人が商品にこうあって欲しいと思うその意識的無意識的な願望が投影されてできた虚像であり、けして商品の実体そのものではない。そしておそらく貨幣は、人類がつくり出した史上最強のブランド品なのであろう。

人間の無駄使い

 資本主義経済は、資源を効率的に使える点で優れているという。だが、人間という資源についてはどうなのか。
もともと人には生まれつきさまざまな才能が備わっている。しかし、そうした才能を開花させられる人は、いまの地球上ではきわめて幸運な人間といえるだろう。
 そもそも才能を開花させるには、きさまざまな条件をクリアしなければならない。まず教育を受けられるだけの経済的余裕が不可欠だ。またそうして養われた才能を社会に役立てるためには、社会そのものがある程度平和で安定していなければならない。
 だが、そうした恵まれた環境にいるのは、じつは全人類のうちのほんのわずかにすぎないのである。
 じっさい、メールひとつで一国の国家予算にも匹敵する莫大な金を動かす人間がいるかと思えば、その日の食べ物にも困っている人間がいる。しかも、前者に属するのは全人類のうちせいぜい1%にすぎず、後者は50%以上になる。すなわち、地球の半数以上の人は、みずからの才能を開花させることなく、いたずらに人生を終えることになるのだ。これを資源の浪費といわずして、なんというのだろう。環境への負荷の上になりたつ資本主義経済は、じつはなによりも人間という資源の無駄使いの上に成り立っているのではないだろうか。

 

貨幣権力を市民の手に

助けあうにも
殺し合うにも
金がいる世界。
これっておかしくない?