人は「気」という「貨幣」を交換しあいながら生きている。一般に「気」は、食べ物の中に多くふくまれるとされるが、意外に多いのが人の言葉である。人は人がはなつ言葉によって「元気」を獲得したり、失ったりする。またとりわけ人が気を交換するのは、笑いを通してである。笑いの中でひとは自らを他者に開く。その時、両者はたがいに気を通じあい、つまり意気投合することになる。もし他者が投げかけた笑いに応じなければ、そこには「気づまり」が生じる。そこには「社会」は生まれない。だが、逆に笑いを強制される時、そこには社会への隷従も起こる。
オリンピックによるナショナリズム克服の方法
たとえば日中韓の選手からなる東アジア混成チームを作ろう。
そうすればオリンピックはやがてナショナリズム宣揚の場からナショナリズム克服の場に変容するだろう。
「働く喜び」という商品
資本主義はあらゆる商品を生み出してきた。だが、「働く喜び」という商品だけは、ついに生み出すことができなかった。「働く喜び」という商品を創り、またそれを購入しようという人はいないか? その人は、新しい時代の創造者となるだろう。
ブランドと貨幣
人は何かを見る際、そのあるがままの姿をみるわけではない。みずからこうあって欲しいというものだけを恣意的にみるものだ。その典型的な例が、ブランドである。ブランドは人が商品にこうあって欲しいと思うその意識的無意識的な願望が投影されてできた虚像であり、けして商品の実体そのものではない。そしておそらく貨幣は、人類がつくり出した史上最強のブランド品なのであろう。
人間の無駄使い
資本主義経済は、資源を効率的に使える点で優れているという。だが、人間という資源についてはどうなのか。
もともと人には生まれつきさまざまな才能が備わっている。しかし、そうした才能を開花させられる人は、いまの地球上ではきわめて幸運な人間といえるだろう。
そもそも才能を開花させるには、きさまざまな条件をクリアしなければならない。まず教育を受けられるだけの経済的余裕が不可欠だ。またそうして養われた才能を社会に役立てるためには、社会そのものがある程度平和で安定していなければならない。
だが、そうした恵まれた環境にいるのは、じつは全人類のうちのほんのわずかにすぎないのである。
じっさい、メールひとつで一国の国家予算にも匹敵する莫大な金を動かす人間がいるかと思えば、その日の食べ物にも困っている人間がいる。しかも、前者に属するのは全人類のうちせいぜい1%にすぎず、後者は50%以上になる。すなわち、地球の半数以上の人は、みずからの才能を開花させることなく、いたずらに人生を終えることになるのだ。これを資源の浪費といわずして、なんというのだろう。環境への負荷の上になりたつ資本主義経済は、じつはなによりも人間という資源の無駄使いの上に成り立っているのではないだろうか。
貨幣権力を市民の手に
助けあうにも
殺し合うにも
金がいる世界。
これっておかしくない?